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内山 正博(うちやま まさひろ、1965年9月25日 - )は、佐賀県三養基郡基山町〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、84ページ〕出身の元プロ野球選手(投手)で元会社経営者(建設業)。 == 来歴・人物 == 小学5年で野球を始め、中学時代に外野手になるが、3年の時に不祥事で対外試合が自粛となったため陸上部に所属した〔。鳥栖高校の1年秋に投手となり、1983年に夏の甲子園に出場した〔。桜井高を降し2回戦に進むが東海大一高に大敗〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕。 卒業後は青山学院大学へ進学。東都大学リーグでは優勝に届かず、怪我もあってわずか3勝に終わる〔。東都大学リーグ通算29試合登板、3勝8敗、防御率3.23、28奪三振。大学同期に南渕時高がいる。 本田技研熊本に進み1988年の日本選手権に出場。尾崎定己との二本柱で勝ち進み決勝に進出するが、東芝のエース菊池総に抑えられ準優勝にとどまる。1989年の都市対抗にNTT九州の補強選手として出場。1回戦で先発に起用されるが川崎製鉄千葉に敗退〔「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年〕。同年には全日本のメンバーに選ばれる〔。 1989年ドラフト外で日本ハムに入団〔。1年目の1990年から中継ぎとして起用され30試合に登板、翌1991年には先発も兼ねて4勝をあげる。1995年限りで現役引退〔。 引退後佐賀に戻り家業の建設会社を継いだが2010年(自己破産により)経営破綻 。 低いサイドスローからのシンカーを武器とし、「西武キラー」として知られた〔。1990年10月9日にダイエーとの対戦でリリーフに立つが、直後に降雨コールドゲームとなり、「0球登板」という珍しい経験をする。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内山正博 (野球)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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